ファイル交換ソフト


winnyのことがテレビの特集で取り上げられていたようだ。
面倒なので使ったことが無いのでどんなものかさっぱり解らないが、
なんかこいつをインストールするとただで映画が見れたり
普通じゃ絶対に手に入らないあんな画像やこんな画像が手に入るんだろうか?
多分たいしたモノは無いような気がするんだが。
ひょっとして俺損してる?。
ほかにもファイル交換ソフトがあるのにどうしてwinnyだけ著作権侵害の恐れがるのかもさっぱり解らない。ほかのソフトの名前もいえ。
著作権著作権というが
アーティストがあんまりぎゃぁぎゃ喚いてるのを見ると
作品が作りたいのか金が欲しいのかどっちなんだといいたくなる。
会社がいうのはわかる。金以外に目的は無いだろうから。
金が欲しいならもっと効率のいい確実な仕事がいくらでもあるだろうに。
コピーばっかりになると困るのは困るだろうが現状コピーが巷にあふれる状況でもアーティストは浮世離れしたいい生活してるように見えるのだが。
コピーが蔓延したせいでホームレスになったアーティストが続出しているような状況ならば納得できるんだが。
つまりはもっと金が欲しいということだろう。
そんな守銭奴の作ったものをありがたがって押し頂いているわれわれ消費者も哀れだ。
経済活動としての著作物ならばそれはそうだろうとおもうが、創作活動は違うものだと思うのだが。たとえ違わなくてもそういった幻想を売るのも商売のうちじゃないのか。
話しをもどす。
情報を流失したのは公務員の方ばかりのようで
民間の企業ならこんなことしでかしたらクビになるだけではなく
会社に損害を与えたとして賠償請求されてもおかしくない。
結局少々のことでは何にもお咎めがないとたかをくくっているから
このようなずさんなことができるのだろう。
警察の受刑者の情報が漏れて、
GJ!と喜ぶ人もいるようだがそれは違う。
犯罪者の人権などどうでもいいが、こういう情報が簡単に漏れるようでは
組織犯罪の摘発に協力してくれる人間がいなくなってしまうだろう。
保護目的で逮捕することもあるだろうし。
居場所がわかれば重要な証人が消されるかもしれない。
これは市民の安全の低下につながる重大なことだ。
せめて罰として、情報漏らした奴の実名とパソコンのハードディスクの中身をテレビで晒して欲しい。特に画像と動画が見てみたい。あ、そうだ。さらに罰としてそいつらだけ、Mac使わせてやれ。

偽メール


政治家って本当に頭悪いな。
メールに何の証拠能力があると思ってるんだろう?。
それもプリントアウトしたものに。
俺はやり方を知らないがヘッダ情報も偽装できるらしい。
個人のサイトでこんなメールが来たとさらしている場合もあるが
そんなのいくらでも自分の都合のいいように作れるじゃないか。
それはいい、個人のサイトだ個人の責任でやればいい。
それを見て、そのまますべて信用する人もめったにいないだろうから。
ことは国会議員だ。個人の責任ではすまない。
民主党もそんなのにどうして乗っかってしまったのか…。
もう少し考えろよ。ほんのちょっとでいいから。
この責任は誰がどう取るのだろう。偽議員一人が責任を取るだけでは済まないと思うぞ。
すべてはアカシックレコードに記録されているからそれを調べにいってきますと
党首がお遍路の旅に出るくらいのことがあれば面白いんだがなぁ。
そのくらい民主党は馬鹿。

大阪弁


大阪弁でリンクされているのでリンク先を見てみると
いい加減な解説で頭に来た。
野村監督は京都出身だし、

在阪球団である阪神オリックス以外でも、大阪弁を貫く選手・監督は少なくない。たとえば、野村克也氏は関西弁でボヤく事で有名である

大阪弁を貫く〜は少ない」を受けて「関西弁でぼやく」と「関西弁」を滑り込ませる。これでは野村監督が大阪弁を話すような印象を与える。
これは酷い日本語ですね。誰が書いたかわからないがこのような印象操作をする必要が何かあるのだろうか。
まあ南海ホークスという大阪のど真ん中にホームを持っていた球団に長く在籍しておられたので大阪弁を話すと誤解したのかもしれないが。
それから元阪神タイガース監督の吉田義男氏も京都出身で
大阪弁ではない。
大体、京都人は大阪を心のそこでは軽蔑している。
これは、関西圏の方以外にはわからないだろう。
そして大阪のネガティブなイメージを撒き散らしたのは
実は、京都人の島田紳助
引退してくれてせいせいした、これも京都人の上岡竜太郎。
そしてそれを仕掛けた吉本の木村部長も京都人。
彼ら京都人の偏見と軽蔑によってカリカチュアライズされた大阪象が
全国に流布されてしまった。
今では谷崎潤一郎の「細雪」の世界はなかったことになってしまっている。
俺の記憶では2回映画化されているはずだ。
財政が破綻している大阪が吉本記念館を維持するために年間いくら吉本に払っているか調べて見ると面白いかもしれない。
俺は吉本は嫌いだ。奴らは大阪を食い物にしている。

あめちゃん


大阪弁では飴のことを「あめちゃん」というというとか
何でも「ちゃん、さん」をつけるというのがよく話題になる。
生駒さん、三宝さん、石切さん、等
神社はみんなさん付けになる。
きっと飴も神事に関係があったのではないだろうか?
油揚げを使ったいなり寿司をお稲荷さんという
そこから揚も「あげさん」というのだろう。
でもうんこを「うんこさん」というのは説明できないなぁ。
ウンコには「さん」がつくのにおしっこにはつかない。
「おしっこさん」というのは寡聞にしてしらない。
まことに遺憾ながら、これは差別だ。由々しき問題ですな。
おそらく何がしかの神的、霊的なものを感じ取っている、
あるいはかつては感じていたということだろう。
そしてそういうものには「さん」をつけたと考えていいのかもしれない。
それから、相手に対して「自分」というのがおかしいという意見をよく耳にするが
これは言いがかり因縁の類だ。
たとえば道端で男の子が泣いていたら
「僕どうしたの?」と聞くのは全国的にこれで問題ないはずだ。
お前は僕じゃないとその男の子が言ったら、なにこの憎たらしいガキはと思うだろう。
厳密な二人称は日本語にはないということをお忘れのようだ。
時代劇では「手前」は
商人が使うと自分のことになり、武士が使うときは御をつけると相手のことになりつけないと自分のことになる。
町人は「てめぇー」とこれも相手自分両方に使う。「てめぇのことはてめぇでやる」などといえば自分のこと「てめぇなにいいやがる」などと言えば相手のこと。これは手前が変化したものと勝手に思っているが違うかもしれない。

アホちゃいまんねんパーでんねん


日本語を勉強中の方からの
「アホちゃいまんねんパーでんねん」のどこが面白いのですかという質問を質問掲示板で見かけた。
どこが面白いかの説明はむずかしいなぁ。
思わずほほえましくて笑ってしまった。
答えている方々も語義の解説や語の用法に終始しているように見える。
俺は面白いとは思ったことがないので、俺にはなんとも説明のしようがない。
多分答えている皆さんもそうなのだろう。
特に「パー」の意味がわからないらしい。
そういえば「パー」なんて最近使わない。
頭の横で人差し指をクルクルと二回まわして後、
手のひらを「パー」の状態に広げるジェスチャー
人の知能レベルを馬鹿にする動作としてあり、
その動作をそのまま「クルクルパー」というようになった…
のだろうと思う。
そして、差別表現に世の中が敏感になり始めた時期に
クルクルが省略されてパーだけになったのだろう。
ではその動作はどこから来たのか
ちょっとわからない。
しかし無理やりに推測してみると
外国映画特にアメリカ映画、それも古めのアメリカ映画やアメリカから輸入されたTVドラマなどでは
よく見かけたジェスチャーだ。
ただし、パーの部分はなく控えめに指を回すだけだ。
意味もほぼ日本と同じ意味で使われているようだ。
Wikipediaの記述を信頼するなら、高度経済成長期に出現したらしい。
それなら符合する。
各家庭にテレビが置かれるようになり、そこでアメリカ製のテレビドラマを見る。
日曜洋画劇場で映画も見れる。
そこでこのジェスチャーを真似るようになったのではないか?
(つむじが左に巻いていると馬鹿だという俗説から、その左巻きの意味で指を回すのだという説をどこかで読むか聞くかした覚えがあるがこれは後付だろう。)
でもクルクルの部分だけで「パー」の部分が説明できない。
もともとそういうジェスチャーがそういう意味として日本にあったのか
あるいは外来のものか…。
幼児に対して「いないいないばぁ」などとやるときに手のひらを広げる動作をする。
つまり、大人を幼児扱いすることで揶揄しているのかもしれない。
また、すべてがだめになるという意味で使われる「ぱあになる」の「ぱあ」からきたのかもしれない。
「パー」がどこから来たにせよ1960年代ごろに成立したという仮説に立てば
日本人の生活の欧米化の始まりの象徴であるといえるかもしれない。
「アホ」というきわめて関西的な古い言葉と「パー」という新しく成立した
日本経済成長、生活様式の欧米化の象徴としての「パー」を対比することによって
面白みを出そうとしたのかもしれない。
また、当時、関西芸人が全国ネットのゴールデンの番組のメインレギュラーなど
ありえない時代だった。
明石家さんまは関西芸人の全国ネット進出の先駆であった。
そして、年代的には高度経済成長の真っ只中に成長した一人である。
「アホ」と「パー」を同時に自分のアイデンティティーと見せることで
関西人ではあるけれど、高度経済成長の申し子であることは全国の皆さんと同じですよ
ということを深層に訴えかける全国ネット進出に向けた高度に戦略的なギャグであったのだなどという高度な仮説も可能であろう。

ヤンキー先生


ヤンキー先生
ヤンキーが先生になれるのだろうか。
ヤンキーをやめたから教師になれたのではなかろうか?
ならば、もうやめてしまったことを
いつまでも看板にしているのは男らしくない。
みっともない。
過去にヤンキーだったからといって
特別視されてしかるべきような何かがあるのだろうか?
どんな境遇にあってもぐれない人はぐれない。
どんな不幸の中にあってもまじめにまっとうに生きるしかできない人はそうする。
どうして悪から更生すると注目されるのだろう。
不幸な境遇の中で一度もぐれない人は存在してはいけないのだろうか。
悪いことをしないのは普通のことでつまらないから注目されない。
ということなのだろう。
その程度の普通のこともできなかった奴が何を偉そうにゴタクを並べるのか。
うるさいから黙ってろ。
悪いことをして反省した人間より一度も悪いことをしたことが無い人間のほうが
偉いのは当たり前のこととは思わないのだろうか。
反省したからといって過去が消えるものではない。
本当に悪いことをしたと後悔しているのなら
過去を隠すのが常人の神経だ。
ヤンキー先生なんて呼ばれて平気でいられる神経は
常人のものではない。
あるいはヤンキーであったことを内心は自慢に思っているかだ。
ヤンキーと名乗るからには
リーゼントでタバコを吸いながらウンコ座りで授業をして
生意気な生徒をボコボコにする位はしてほしいものだ。