規制緩和の嘘・実力社会の嘘


規制をなくし実力社会になれば
いい社会なるような嘘がが吹聴されだして
何年の月日が浪費されただろうか。
例えば草野球に
イチロー三番、四番松井で
ピッチャーは松坂
だったらどうだろう。
それはアマチュア規定に反するというだろう。
しかし、それは規制緩和で撤廃されたのだ。
正直ずるいと思うだろう。
そして、大多数の人間は草野球をするのが馬鹿らしくなるだろう。
プロと試合ができるのだから
面白いじゃないかと思うかもしれないが
あまりの実力差にそのうちいやになるに違いない。
そして草野球人口は激減する。
草野球ならやめればいいが
これが仕事ならやめるわけにはいかない。
そういう社会は決していい社会とは思えない。

鉄腕アトム


巨大ロボットに対してアトムに代表される
人の似姿としてのロボットがある。
アトムは天馬博士の亡くした子供に似せて作られた。
人間サイズのロボットと巨大ロボットの違いはなんだろうか。
やはり、人間サイズになってしまうとそこに人格を見つけてしまうのが人間のようだ。
バトーはいった「ゴーストがないお人形(ロボット)は悲しいね。特に赤い血を流す型(タイプ)はな…」
ゴーストがないお人形と思いつつ、悲しいのである。
人間は形に本質を感じてしまうもののようだ。
巨大ロボットをわが子のように思ったり、
彼女にしたいと思ったりは普通しない。
そういう表現が可能だとしてもそれは比喩的なもので
実感としての錯覚とは違うものになってしまうのに違いない。
う〜ん、自分で言っていることがよくわからん。
そうだエロで考えてみよう!。
例えば、アフロダイAと人間が絡む
エロ漫画或いはエロアニメが見たいだろうか
というよりマジなエロとして表現が可能であろうか?。
ギャグか一部のマニア向け以外には無理そうな気がする。
まあそのなんだ、サイズの違いが本質を変えてしまうというのはちょっと面白い。
手塚治虫はアトムを創造したが巨大ロボットに乗り込むという発想はなかったようだ。
ようだ、というのは全作品を読んではいないからだ。
また、日本アニメのもうひとつの潮流を作った
宮崎アニメに登場するロボットは
ラピュタのロボット兵、ナウシカ巨神兵のように
少女の願いを聞く巨人でしかなく、大魔神と同質のものだ。
クシャナたんは少女なのである。そうなのである。無茶を承知で言う。)
そこへスコープドッグ、ランドメイトとう中途半端なサイズのモノが現れた。
人間をその中に搭乗させるために人間よりは大きいが
巨大ロボほど大きくなく、小さめのショベルカーやフォークリフトのような
大きさである。
エイリアン2でリプリーがエイリアンと戦ったロボットみたいな
荷役用のメカを思い出してみるまでもなく
このサイズになると実用の道具という風情が出てくる。
自我の入れ物としては少々小さく、親近感を抱くほど小さくはない。
ロボットを即物的に道具として描くときにはいいサイズだろう。