茶髪

茶髪というのはおそらく、染髪或いは脱色で茶色くした髪のことなのだろう。
茶色に染めた髪を茶髪とはこれいかに。
生まれつき茶色の髪はどう呼ぶのだろう。
こういう言葉が成立するのは、日本人は黒髪だという暗黙の了解があるからに違いない。
「茶髪」という言葉は、本来生まれつき髪の色が茶色い場合の呼称ではないはずであるのに生まれつき髪が茶色の場合の呼称が別に存在しない。
ゆえに本来の茶髪の集団に生まれつき髪の茶色の集団も吸収されてしまい区別があいまいになってしまっている。
更に、「金髪」という言葉の使われ方に引きづられて「茶髪」の概念を曖昧にしていると思われるフシがある。日本人は「金髪」といえば普通は白人女性を連想するだろう。これでは赤毛のアンの立場がない(笑)。もちろん金髪の男性もいる。「金髪」という呼称がその人の属性ではなく、人種と性別(大きな枠で言えば、その人が属する集団)を表す言葉になってしまっているということだ。このことも「茶髪」という言葉の意味を曖昧にしてしまっている。
つまり、「髪が茶色である⇒髪を染めている⇒反社会的な集団⇒けしからん⇒処罰」という具合に短絡的な類推が働き茶髪は罰するべきという短絡に陥るのだろう。
また、染めているのかもともとの髪の色なのかは判断が難しく、特に日本では黒髪率が高いため、少数の生まれつき髪の茶色い者は判断をややこしくする邪魔者という認識を生じさせているのではないか。特に学校の教師にとってはこいつらさえいなければ茶髪について四の五の言い分けさせることなくもっと楽ができるのにという思いがあるのは当然のように思える。
もはやここにいたっては、髪を染めるという反社会的行為(といってもそれも大昔のことだ…)が問題なのではなく、茶色という色が罪の記号となってしまっている。
つまり、髪を染めてはいけないという規則がいつの間にか黒い髪以外は黒く染めろという暗黙の規則に変質してしまっている。
もはや、人間とは思えないほどの思考力の衰退である。
ただこのことと絡めて校則を批判する市民的な人々はこの問題をこれとは無関係な政治的対立と混同させるので迷惑この上ない。
規則はどこにでもあり、規則があるから世の中楽しいのだ。
ただ、身長や体重、手の長さ腕の長さ、血液型などと同じ個人の身体のアイデンティティーにかかわることを規則で決めることは不可能であり、そんな馬鹿なことはやめるべきである。
なぜなら、アイデンティティーを平均で切り分けることはできないからだ。
たとえば、法律で股下60センチ以上は議員にあらずなどと決めてみよう。国会議員の平均にあわせるとこんなものか?平均はあくまでも平均で個々人の股下はまちまちである。60センチより短い人はいいけれど80センチの人は長い分を切るしかない。ちと残酷だね。
髪は切っても伸びるけど足は切っても伸びてこない。
髪の長さは、自分の意志で決めているわけで、それは組織にあわせるという意思表示として切れと言うのはありだ。
しかし、足の長さは生まれつき決まっている。たとえ切っても伸びてくるとしても切らせるのはだめだ。
髪の色は生まれつきであるということが重要だ、肌の色が何色だからけしからんといっているのと同質である。
自分の生まれつきを否定されるようなことはどんな社会であってもあってはならない。