死刑なのだ


刑罰にわれわれが求めるものは法学的な議論などとは関係なく個人においては、私刑は社会秩序の維持という観点から好ましくないと言うことなら、法が個人に代わって復讐してくれというのが実情であろう。
現状の問題は犯人の人権を重要視するあまり復讐の観点から言って甘すぎる処分が横行していることにある。
大島渚などは死刑廃止論者であるが現場で死刑を執行する執行官の心的負担を言い募っていたが、俺は本人に聞いたことがないし、そういった資料も知らない。こういう連中はこういうインチキをすぐにするのではた迷惑この上ない。いったいどこの誰がそんなことを言っていたのか?。俺なら毎日でもやってやるが。
そしてもう一点が殺人を犯した者を裁くのに殺人という手段をもってするのは矛盾しているということらしい。
ここでもこういうやからのインチキが炸裂している。殺人という実体があるわけではない。
法に認められていないのに他人の命を奪うことを殺人と呼び習わしているのだ。
つまり、死刑とは、法に触れて他人の命を奪った者を、法に基づいて命を奪うという形で社会から退場していただくということである。
チャップリンの有名な言葉に「1人殺せば犯罪だが100人殺せば英雄だ」というのがある。
『殺人狂時代』の一節だがこの映画前半は殺人コメディの雛形を作った名作だが、後半は急に思想がかってへんてこりんになる。
今時では100人くらい一人で殺してしまうツワモノ犯罪者もいそうだがここで言いたいのは大量殺戮は個人の力ではなしえず国家や国連や企業などの巨大組織の後押しがなければ不可能であるといいたいのだろう。企業がやれば組織犯罪であるが、国が認めたのであればその国においては犯罪ではないのは当然過ぎるほど当然のことであるし、国連が認めたのであれば世界的に犯罪ではない。
つまり、殺人が犯罪なのではなくて、法が規定した犯罪の中に殺人と名づけられたものがあるということである。
だから死刑は殺人ではない。
殺人を「人殺し」と言い換えて反論するクソもいるかもしれないが「人殺し」と言い換えても同じこと。
人殺しとは倫理的感情に訴える言葉なので、いろんな意味を含んでしまいやすく全体のルールを決める場では不適格である。どんな言葉も完全に定義することは不可能であり、インチキなクソ連中はそこを最大限に利用して議論をまぜっかえすのが得意技である。しかし、そうなると議論は混乱しまともなことが決められなくなる。そういう人間は本当にた迷惑である。そして特にこのようないろんな意味合いを含ませやすい言葉を多用する。
殺人を人殺しで罰するのは矛盾している。
人殺しを殺人で罰するのは矛盾している。
殺人は法的根拠があり「人殺し」は法的根拠がない。つまりどちらも違うものなので矛盾しない。
人殺しを人殺しで罰するのは矛盾している。
この場合は矛盾しているかどうかは人殺しにこめられた意味によって変わってくるので、わからないというのが妥当だろう。なんにせよ客観的根拠の特定が不可能な感情論は議論の場に持ち込めない。