巨大ロボットアニメ


巨大ロボット。
嗚呼。なんと甘美な響きであることだろう。
初期の巨大ロボットアニメ、鉄人28号では
大きなリモコンボックスで鉄人を動かしていた。
アニメではないがジャイアントロボ
腕時計型のリモコン装置でロボに命令していた。
「行け!メガトンパンチだ!!」
なんてね。
しかし、マジンガーZ以降、
ロボットに搭乗して操縦するのが常識になった。
しかし、このときはまだ、操縦者が頭脳であるという発想からか
頭部に操縦席があり、しかも操縦者は露出しており危なっかしい。
そして、ガンダムでは操縦者はパイロットと呼ばれる。
そして装甲に覆われたコクピットに乗り込む様は戦車の様でもある。
そしてエヴァンゲリオンではまるで生体に
インプラントを施すようにエントリープラグで挿入される。
操縦者とロボットは段階的に一体感を増してきた。
しかし完全に一体化してしまえば
それはウルトラマンと同じく単なる巨大ヒーローになってしまう。
そこまで考えてふと思った。
巨大ヒーローと巨大ロボットとの違いはなんだろうかと。
やはり、人間が操縦するということが違いだろう。
しかも、人間が中に乗り込まなければ面白くない。
人間の命令で動く巨人というだけではだめなのだ。
乙女の祈りで目覚める大魔神も正太郎が操る鉄人も似たようなもので
まだ神話的で見る側も俯瞰的に見てしまう。
それでは面白くない。
一体化してはいけないが離れすぎてもいけないのだ。
巨大であるということは
肥大化した自我を吸収するためではなかろうか。
自我を肥大化させたままでは苦しい。
だから、巨大な入れ物に移し変えるという思考が
カタルシスを生み出すのだろう。
つまり、ただ単に命令に服従する巨人ではだめなのだ。
そこに自我を注ぎ込むには大きさは充分ではあるが
一体感が希薄なために注ぎ口が小さすぎるのだ。
車のハンドルを握ると人格が変わるという例を出せばわかりやすいだろうか?。
やはり乗り込まねばならないのだ。
そして、マジンガーガンダムエヴァと一体感が増すにしたがって
搭乗者自身の行動力が
小さくなっていくように見えるのはこのことが関係しているかもしれない。
一体になればなるほど自分から行動する必要が小さくなる。
何もしなくても欲求を充足してくれる割合が大きくなるから。
ではカタルシスを維持したまま、どこまで一体になれるのだろうか。
エヴァあたりが限度のような気がする。
だとすればエヴァンゲリオンは巨大ロボットアニメの終焉でもあったことになる。